OSAKAええとこ一度はおいでよ

てなわけで、この木曜日、金曜日と大阪にかえっとりました。どういうわけかと言いますと、おばあちゃんが水曜日に亡くなったんでございます。人間ちゅうもん例外なくいつかは死んでしまいますが、いつ死ぬかちゅうのは、これ誰もわからんもんで、はい。てなわけで、生きてる人の都合なんかはおかまいなしに人の死ゆうもんは唐突に、理不尽に、やってくるんでございますなぁ。はい?なんで落語口調かって?ほぉ、人の死をおちゃらけて何しゃべっとんのやと。はいはい。あんさんの言うとう事はわかります。ようわかりますよってに。でもね。そりゃぁ、あんさん大阪にいて2、3日いたら誰でもこうなりますがな。あんさん大阪のラジオ番組聴いたことありますか?”ありがとう浜村淳”聴いたことありますか?わては子供の頃から朝はラジオの浜村淳の声を聞ききならがご飯食べておりましたんやで、そりゃこうなんのもしようがありませんがな。え?読みにくいって。あ、そうか。これ日記かいな。文章表現かいな。こりゃ失礼しやした。どうか堪忍やで〜。堪忍やで〜。堪忍やで〜。

・・・コホン。というわけで、少し、おばあちゃんの思い出を書く。

いつもニコニコしてるおばあちゃんで、めったに僕たち孫に怒ることはなかった。うちの兄貴は「おばあちゃんの怒られた記憶がない」と言っていたし。たぶん末っ子の妹も怒られたことがないだろう。しかし、僕は2度そんな温厚なおばあちゃんを怒らせてしまったことがある。1度目は小学校の低学年ぐらいだったと思うけど、おばあちゃんの家で兄貴と鬼ごっこをしてたときだ。僕はトイレの鍵を閉めてなかで隠れていた。兄貴がそれに気づいて(すぐバレた)トイレのドアをドンドンと叩きだし。僕はなんとかせなあかんと焦り、トイレの便座に足をかけて窓から脱出したのだ。当然、鍵をかけたままなので、誰もトイレにはいれなくなって大さわぎに。最終的にはおじいちゃんが窓から必死に棒を使って鍵を開けたのだが、この時のおばあちゃんの鬼の形相を僕は今でも鮮明に覚えている。ひとつ目はおばあちゃんの家に泊まったときにオネショをしてしまった時だ。僕が幼かったらオネショぐらいでそんなにも怒られなかったと思うが。僕は当時小6だった。でも、ぎりぎりあるよね。小6なら。ないかな?

小学生の低学年頃だったと思う。夏休みにおばあちゃんの家で一緒にぶどうを食べてる時「おばあちゃんが死んだらケンちゃんは泣くか?」と唐突に聞かれたことがある。僕はその当時、泣くことはとても恥ずかしいことだと思っていたので、照れ隠しで「そんなもん死んでみなわからんわ」と答えてしまった。おばあちゃんは笑いながら「そうかぁ。そりゃ死んでみなわからんわなぁ」と言っていた。後日、母から「”ケンちゃんて冷たい子やわぁ”ておばぁちゃんが言ってたで」と聞いたとき、胸が痛んだ。

おばあちゃんと動物園に行ったとき。おばあちゃんはかばんから黒アメをだして、猿にあげていた。猿はボリッ!ボリッ!と黒アメを食っていて、横には「サルにえさをあたえないでください」としっかりと書かれていた。

僕がまだ幼かった頃(たぶん4,5歳)おばあちゃんの家に風呂がなくて毎回、銭湯に行っていたのだが、その日は近くの銭湯が休みだった。しかし、幼い僕はどうしても銭湯に行きたがって、しょうがないので遠いほうの銭湯に行くことになった。おばあちゃんと兄と僕で暗い夜道をひたすら歩いていったのを覚えている、かなり遠かったように思う。でも、これは母から聞いた話で僕は覚えていないのだが、おばあちゃんがその遠い銭湯についた時「なぁ、遠かったやろ?」と僕に聞いた。「こんなもん。いっこも遠ないわ。」と僕は言った(らしい)。おばあちゃんはそのあまのじゃくの孫の話を母によくしていたという。

大阪の話を書こうと思ってたけど(だからあんなタイトルに・・・)おばあちゃんの話になってしまった。まだまだ思い出はつきないのだが、この辺で終わりにしたいと思う。おばあちゃんの世話をしてた介護施設の職員の若い女の人は涙を流して「いつもニコニコしていて我々も癒されてたんですよ」と言っていた。おばあちゃんは最期までニコニコしていたのだ。